kinjo

ボンファン。

ケーキ好きの人は、大体知っている県内の老舗の高級洋菓子店「ボンファン」。創業したのが1984年。

オーナーシェフの金城善治は、東京のヒルトンホテルで修行して、復帰直後に沖縄ヒルトンホテルでパティシェとして活躍し、県内のパティシェの先駆けです。その後独立しホテルにあるケーキを街中の洋菓子店としては初。そのような高級洋菓子店は他になかったので、オープン当初は話題を呼び人気店になりました。ちなみに、パティシェはデザート専用のシェフというイメージでありますが、本来はミートパイとか粉を扱う料理する人のこと指すという。

県内初のパティシェとして洋菓子の先駆けの金城善治シェフは、最初からパティシェを目指しているのではなく、料理人として生計を立てようと考えていました。

 

「21歳までに、沖縄そば屋とか、何でもいいから料理で身を立てようと思っていました。19歳でしたので何の技術もありませんでした。あるレストランに面接を受け、調理人として勤めていました。当時は復帰前でしたが、沖縄は観光が徐々に増えており観光産業が盛んになればホテルも多くなる。そうなるとホテルで料理を作る人間が必要になる。自分も腕を磨かないといけないとおもっていました。そう思いながら働いているとレストランにあった雑誌を読んでいると、辻調理師専門学校の広告が掲載されていたのです。そこに行こうと思ったのです。1年間レストランでコックをして、それから辻調理師専門学校に入学しました。

当時は、沖縄は日本ではなかったので、本土に行くにはパスポートが必要でした。今は東京に飛行機ですと3時間弱で行けますが、当時は九州経由で船です。琉球政府発行のパスポートをもって、鹿児島まで船で行き、鹿児島から熊本まで汽車でいきました。そこから熊本から夜行列車に乗り換えて長時間揺られて大阪までいきました。

今でこそ辻料理師専門学校は全国的にも有名ですが、当時はほとんど知られていないマイナーな学校でした。私は学校卒業後、東京ヒルトンホテルの入社試験を受けて入りましたが、面接の料理長から辻専門学校はどこにあるのかと聞かれるくらいでした。辻調理師専門学校から初めて東京ヒルトンホテルへ入社試験で受かりました。

入社後は、床磨き、ガラス磨き、宴会のテーブル並べ、営繕みたいな仕事もしました。初年給8300円でした。私以外の同僚はどこかのホテル・旅館の2代目でした。ですので、スポーツカーをもっていて、都心にマンションを持っていました。ホテルの駐車場が1万5千円でしたが、彼らは駐車場を借りていました。あの頃のホテルは修行の場で2代目達は修行としてやってくるのです。その場所に場違いの私が紛れ込んだようなものです」

 

若い頃は、吸収力もあり仕事が急に伸びる時が必ず訪れる。その時、無茶するくらいやらないと一人前にはなれません。金城善治シェフも貪欲に自分の技術を伸ばすために、必死に働きました。大変でしたが技術を学ぶ機会を無駄にしませんでした。

 

「他の人が8時間やっているのに自分が8時間やってもそれなにのレベルにしかならない。料理人のいいところは作ったもので実力が評価されますのでわかりやすい。その代わり良いのが作れないと評価されない実力社会です。人間とはこんなに差があるのかとおもいました。

朝4時から出勤でも夜中の12時頃にいって自分の仕事を一通り終わらせて、先輩の仕事を手伝いました。そうしないと教えてもらえなかった。1、2年の差はものすごいものがありました。一度タイムカードを打ってもまた仕事をしていました。タイムカードを打たないこともありました。給与くらいの4000円、5000円の商品をつくっていました。給料は少なく確かに大変ではありましたが、目標があったからできたとおもいます。ホテルに同期で入社した同僚は130名いましたが半年で80名くらいになりました。

あの頃は給与よりも裏方までまわってくるチップの方が多かった。そのお金で野球の道具を買って、外で食べる以外は神宮外苑で草野球をしていました。東京での修行は短い期間でしたが相当勉強になりました。

パティシェに興味をもったのは、ドイツ人シェフの影響です。彼は美大を卒業して、チョコレートで日本画を描き色合いも面白かった。ディスプレイが当時は斬新ですごかった。注目されていました。

今振返ると、東京のホテルでの修行時代は休みもほとんどなく働き詰めでしたがとても幸せを感じていました。本当に自分がこうなるという目標を持っている人は、就労時間とか休みとかは関係ないんですね。やったことは必ず自分の身になっていきます。自ずと差が出てくるわけです。私が若い頃は、団塊の世代ですので皆頑張っていました。ですので、いくら頑張っても少ししか飛び抜けることはできませんでした。

『今の若いものは』とよく言われますが、若い子達は10分前にきて、就労時間が終わると10分過ぎると帰っていきます。そういう状況に歯がゆさを感じます。今は、少しだけ頑張れば、人より飛びぬけられる。今やると将来につながります。若い子は、週休2日が当たり前で幸せを感じないのかもしれません。私は働き詰めの毎日にやりがいを感じていました。価値観は人それぞれだとおもいますが、どちらが幸せなのか考えてしまいます」

syatyou01

東京ヒルトンホテルで日夜腕を磨くことに切磋琢磨していたときに、沖縄にヒルトンホテルが出来るという話が。現在、沖縄には年間観光入域客数は約600万人。恩納村のリゾートエリアにはリゾートホテルが立ち並んでいますが、復帰当時の72年の年間観光入域客数は約44万人と現在の10分の1で、本土大手系列のホテルもほとんどありませんでした。

 

「海洋博覧会の前で、観光客も今のようにまだまだいない時代です。沖縄ヒルトンの他に大手系列のホテルはほとんどなく東急ホテルが出来たくらいです。大手ホテルスタッフがトレーニングにきていました。

苦労したのは人です。面接して料理人を採用したのですが、東京との常識の違いを感じました。『得意料理は何か』と聞くと『洋食、和食、中華』と答えてくる。スゴイ人がいるなぁとおもいました。(笑)

東京と比較して沖縄は市場も狭いので、それなりの宴会しかないとので、オープンして間もない頃はよかったのですが、だんだん質が悪くなりました。それなりの料理にしかできなかった。

もう一つ苦労したのは食材です。油脂できている輸入食材を使わないといけない。生クリームが欲しくてあるメーカーとやり取りしながらつくってもらいました。私の担当はパンとデザートを担当しました。料理長はイタリア人ですが、宴会があるときはメニューのデザートを空けて一任させてくれました。欧米人と日本人の胃袋はちがうので、料理長もわかっていたとおもいます」

 

東京とは違う環境に戸惑いながら、試行錯誤し自分の納得のいく仕事に注力していたが、ホテルの売却の噂が金城さんの耳に入った。沖縄ヒルトンホテルは、フランチャイズでオーナーもホテル事業は始めてだったので、ロイヤルティーや人件費で圧迫され利益がどんどん減っていった。そうなると使う食材の質も悪くなる。

金城さんは、ホテル勤めを辞め、独立する準備を始めました。

準備をして約1年後の84年に壷屋にボンファンを開店。ホテルのお菓子が街中の店舗で買えるということでメディアでも取り上げられ話題になった。作っては売れる状態であったが、金城さんは経営の素人であると認識しました。

 

「1年くらい準備期間を経て、クリスマスイブにオープンしました。ケーキさえ作れればやれるという動機はいたって安易でした。商売を知らないから独立できたのです。経営を知っていたらやっていません。独立して初めて経営の難しさを知りました。お菓子の技術しかしりませんので、中小企業大学校や、セミナー、勉強会で経営学を学びました。

しかし、オープンした当時はものすごい反応でしたね。そういうが他に店なかった。私がつくるお菓子は、沖縄の街の洋菓子屋さんにはまだなく相当珍しかったとおもいます。

広告などは一切しなかったのですが、1ヶ月してから土日はお客さんがひっきりなしで、自動ドアは開いたままの状態でした。あまりにも売れるので生産が間に合わずショーケースも商品がなくガラガラしていました。私と家内とスタッフの3人で必死になってやっても注文をこなし切れません。24時間、休む時間も無く働きっぱなしでケーキをつくりる作業中に睡魔に襲われケーキに頭を突っ込んだりしていました。その状態が2年くらい続きました。

89年に泊店をオープンし、デパートからも出店の声がかかって、91年にリウボウに出店しました。ピークが99年でした。

毎朝、店舗の前は掃除をしていましたが、ある日、いつものところではなく、別のところを掃除していたら、近所の方が声をかけてきて『あの店のお菓子は自分達には、高くて食べられないさぁ』と言われたのです。また他のお客さんから『普通のお菓子はないの』と言われたこともありました。自己満足のケーキを作っていたのかと反省して、一般のお客さんが欲しがる菓子類も作りました」

 

ボンファンのオープン当時、街の洋菓子屋さんが作るケーキと言えばアメリカンスタイルが主流で、砂糖とケーキを絡め手でさわっても手につかないようなもの。ボンファンのフルーツケーキはなんと半年寝かせ熟成させたという。今までの街のケーキ屋さんの概念を覆すような洋菓子をどんどん出してくるボンファンのケーキは衝撃でした。話題の人気店になるのは当然です。

 

「リウボウへ出店した当初は忙しかったですね。客層はとてもよく、久茂地周辺の大手企業からの需要もありました。面白いことに商品券の需要も結構ありました。本土のある企業の方は商品券しか買わない。得意先に商品券をギフトとして差し上げていたようです。忙殺されて自分が何をやっているのかわからない状態の時もありました」

ケーキは季節によって売れる時期、売れない時期がはっきりしている季節商品。12月から4月、5月上旬まで、年間売上の7、8割くらいになります。夏場は、ゼリーとかアイスクリームが良く売れる。

お客さんの嗜好も変っていく。昔は硬いものが売れていたが、今はプリンとかシュークリームなど、噛まないで流し込めるようなやわらかいもが売れ筋になっている。お客さんの嗜好の変化を掴み、それに先取りした商品をどんどん提供しなければ、マンネリになり老舗であろうが飽きられてしまう。設備投資も冷蔵庫だけで、600万円するのもあります。

県内初のパティシェである金城さん。技術に対して貪欲で、機会があれば菓子作りに関する勉強をしています。

 

「ケーキ作りの通信講座をうけました。もちろん基礎的な作り方はわかります。しかし日進月歩で新しい食材が出てきます。新しい食材の使い方は違うわけです。その使い方を習うために受講したのです。最近は、ケーキ作りだけでなく本土へアメ細工の勉強をしていきました。講師の方から『なぜ、そういう歳から習うのですか?』と指摘されましたけどね(笑)」

 

まさに、プロフェッショナル。

職人気質の金城さんであるが、最近は人づくりの大切さを感じるという。

 

「接客も職人に求められる時代になりました。私も若いスタッフを指導していて感じるのですが、親の元で社会生活を営む上で必要な最低限の基礎があまり教えられていないと感じます。『なんでお客さんが来たらいらっしゃいませと言わないといけないんですか?』と質問される場合があります。『はい』『いいえ』『おはようございます』から指導しないといけない。ケーキはいつかをつくれるが、人間性を伸ばすにはなかなか難しい。対人関係がしっかりできないと教えようがありません。親がもっとしっかりしてくれたとおもいます。
最終的には、こころです。モノづくり、経営もそうです。最終的には技術じゃないとおもう。いつか、時がくればできる。こころというのは自分が磨こうと思わない絶対できない。人づくりさえできれば、どんな商売でもできるとおもいます。価値観を一つにして、その人を伸ばしていくのは大変難しいですね。人の倍働くことは難しいのでが、人の半分働くのは簡単です。それも人間性で、自分がどこで満足を得るのかが求められる。でも沖縄は、こころという面では可能性はあるとおもいます」

 

沖縄初のパティシェの金城さん。高級洋菓子の店を広めた業界では知らない人はいない。業界を牽引してきた金城さんは、時代の変化を敏感に感じとっています。

時代は移り変わる。シェフは菓子をつくっておけばいい時代ではなくなった。そのことを実感しながら、どう対応していくのかを模索しているか、今後の展開を楽しみにしたい。

 

オーナーシェフ 金城 善治